昭和五十四年十一月十八日 朝の御理解

 御理解第八十節 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」


 信心を段々させてもろうて教えを頂きますと、人を大切にする、という事を教えられます。特に金光教では人を大切にする、という事。大切にしょうと思っても大切に出来ない人があるですね。もううちのはばさんばっかりは、大切にしょうと思うばってん、も、ばばさんの言わっしゃる事、せらっしゃる事は、もう思うたら大事にされん、と言うのがあります。本当に信心させて頂く者は、若い者も年寄りも、本当に年寄り自身も若い者に大切にされる内容を、いよいよ頂かなきゃいけないと思う。
 昨日は合楽会でしたから、いろいろ皆さんの話を聞かせて頂いた中に、指出の久保山さんの発表があっておりました。指出の地区で毎月共励会がございます。ここから先生方が皆行って、指出共励会と言っておりますが、今度の共励会にいつも嫁さんが来て、お話を頂きますのに出て来なかった。
 それでお祖母さんとしては出て来てお話を頂けばよいが、と思うけれども、何か都合のある事だろう、と思って、どうして出て来なかったのとも言いもしなかったし、ま、思いもせずに神様にお願いさして頂いとりましたら、明くる日、昨日はお母さんすみません、子供を寝かしよってから、私まで一緒に眠ってしもうとりました、と、ま、言う。
 しかしまあ、その一言でええのや、と言うて昨日は話した事でしたけどね。まだ嫁さんには信心がありません、わかりません。それでもやはり毎月の共励会の時には必ず出て来てお話を頂く。まあ子供が具合が悪かったりしたら、御神米を頂かしてくれとか、お神酒さんを頂かしてくれと言うて、ま、その少しは、その分かってはおるけれども、分かってはいない。
 けれども明くる日嫁ごがそう申しました。そしたら今度の十三日会の日には、お母さんこの頃私はお話を、とうとう頂かなかったけん十三日会に行きなさるなら、私も一緒に連れて行って下さい、と言うた、と。またお母さんも有難く思った、と。ちょっと時間が遅れたから、障子の外で聞かせて頂いとりましたら、秋永先生が来て、あんたどんなこげん所で寒かとこに、はよ中へ入って頂かんの、と言うて下さった。
 今の方が、ここの合楽教会の信徒会長さん、と言うたら嫁ごが大変感動した、という話をしておりました。しかしお互い信心させて頂く者同志として、また新たにお参りをして来ておる、この一つの思いやり、というものが、ね。どの位人を感動させたり有難い心の状態にするか、という事が分かります。もう、これは心にあるものですからね。いつも、これは心掛けとかないけません。
 これは人を大切にする、という事でも、又は年寄りを大切にせなならん。信心を頂けば尚更、そこが人を大切にしなければならん。神の氏子として、というふうに教えを頂きますから、大切にせねばならん、という事は腹の中に入っておるわけです、ね。それでもです。年寄りが大切にされない内容を持っておる場合があります、ね。だから大切にしょうとは思うけれども出来ない、といったような場合があります。
 結局、その内容です。なら、その内容がです、秋永先生と久保山さんとの事でもです。内容にいつも信徒会長として信者さん達の事を思うたり、一つの情念といったようなものが、いつも通うておる。だからそこに、その嫁ごさんが感動するような、たった一言の表現だけれども出来ておる。同時にまた、そのお祖母さんが、その本当、うちの嫁ごさんばっかりは折角先生方に話しに来てもろとるとに出ても来んな、と。
 何、あんた昨夜何しよったの、と例えば、いうような内容では大切にされない、と思うですね。だから言いやせんでも、心の中にずうっと思うとるわけです、ね。だからそういう内容ではおかげになりません。これは特に人間関係はそうです、ね。も、これは年寄りと、ま、いうなら若い者だけの事じゃありません。も、人間関係の、ね。
 口に、私はどう言わんばってん向こうの人がこう、というふうに言うけれども、内容の中に心の中にあの人ばっかりは、とかあの人は、というようなものがあるから、それが本当に通わないのだ、というふうに頂くが一番間違いないと思うですね。信心を進めて行く上に於ては。
 昨日午後の奉仕をしとりましたら、原さん所の昌一郎さんの奥さん、良子さんと申します。最近お参りがない、と思いよったら、昨日突然参って、その一人で来ました。参って来た途端に、ここでもう、えらい何に感動してござるじゃろうか、と、ま感動ではなかったでしょう。も本当に相済まん、という、ま事だったらしいんです。も本当に、言われる事がどういう事を言われるか、というと親先生どうぞ人を大切にさして下さい、と言われるんです。
 そしてまた途切れて、ここで頭を下げられておられましたから、本当、人を大切にさして頂かなきゃならんけれども、なかなかね。それが出けん事もあるけれども、もしあゝ自分な人を大切にしていない、という事が分かったとして、ならわざわざお詫びに出て来る人が良子さんおかげ頂く心ばい。人間はなかなか一遍には出来んけんの、と言うて、ま話した事でした。ね。
 成程あんまり人のように、ま、口が軽いと言うと可笑しいですけれども、あんまり物言わんなら言わんほうが好き、というようなお性格です。ですからなかなか、その利口、口も言いきらんけれどもです。けれども心の底に、人を大切にせんならん、という事が分かっておっても、あんまり物言いきらん、というか言うごつない性分ですから、ま、ニコニコしとく、とか何かで、ま、いうなら誤魔化して、誤魔化しておる、という事じゃないけど、ま、心の底には教えがそうして入っとる。
 昨日はどういう事であったか知らんですけれども、ここに見えて、ただそれだけの事で、それこそ昨日は、あの久し振りで私会いましたが、親先生、人を大切にさせて下さい、という、その自分が、も人を大切にしない。大切にしないと自分も、また大切にされない。これはまあ道理です、理屈です、ね。
 自分が人を大切にせずして、大切にされるはずはありません。形だけじゃ通じません、ね。心から大切にするなら、絶対大切にするです、ごとなっとるです。ね。だから、なら人にあんまり好かれんとか、大切にされん、とかと言う自分を思うた時に、これは本気で大切にせないけんな、と思うた。その事だけを、も、しきりに思うた。しきりに思うたから、やはり突然でしたけれども、お願いに見えた。
 ま、自分の、いうなら懺悔のような事。そしてどうぞ本気で人を大切にさして下さい、と。その中味には主人を大切にさして下さい。又は親を大切にさして下さいという、またお客さんを大切にさして下さい、という様々な内容もあっただろう、とこう思います。どうでもひとつ人に大切にされる私にならないけません。その為には、まず自分が大切にしなければいけません。
 今日は久保山さんの例を聞いて頂きました、ね。うちの嫁ごさんばっかりは、こげんせっかく先生方の来てござっところに、話し聞き出てくりゃよかとこに、と心に思うたり、又はそれを、どうして出てこんじゃったの、ち言ったような事でも、言う内容というものは好かれん心です、ね。そこにむしろ、こ、祈る心というものは、もう明くる朝、早速すっきりする心が生まれた。
 すいません昨夜は、子供を寝かせらがしよって、自分まで寝てしまいました、とこういう。あゝそうじゃったの、で、もうひとつも問題がない。そしたら今度十三日会に出。この頃お話を頂かなかったから、ね。私も連れて行ってくれ、とこういう、ね。そこに親子の何とも言えない働きが、もう次には起こっとる。信心しなさる人達は、本当、有難かですの、と。
 私どんぐらいの者で、あゝあの人が信徒会長さんですか、と。信徒会長さんが、私共にそういうふうに、ま、優しう言うて下さった、という事が有難かった、と、こ言うのです、ね。そういう中から大事にするとかしないしか、又は、という、その内容を、私共がいつも検討してまいりますと、ね。段々それが身に付いてくる。それこそ原さんじゃないですけれども、一遍にはなかなか出けんけれども、実際に人に傷付けてばっかりおる、ね。その自分というものを、いうならば悲しいまでに思う。
 昨日は悲しいまでに思われた、と思うです。涙を流して、それをお届があったですから。人を大切にさして下さい。も、だからそれでいい、と。その心があればそれでいい。性格というものは一遍に変わるものじゃない。それを神様にお取次を頂いて願う、という心。私達でも、そうです。人に大切にされない時には大切に、自分がされない内容があると思うて、お取次を頂いて、人に大切にされる私にならして下さい。
 また人を大切にさして下さい、といったような願いのもとにです。段々おかげを頂いて行くならば、段々年を拾うていくたんびんに、いく事によってです。それが本当なものになって年を取ったら、また若い者から大切にされる内容が育ってくると思うですね。
どうぞ。